
2025年6月3日、日本のプロ野球の発展に大貢献した読売ジャイアンツの長嶋茂雄終身名誉監督が亡くなりました。
長嶋監督は、日本人なら誰しもが知っているであろう最高峰の野球選手でした。同時に、長嶋監督自身が日本の野球文化の「顔」であり、この人物の名を避けて日本のプロ野球を語ることはできません。「長嶋茂雄」は日本近代史に燦然と輝く名前であることは間違いないでしょう。
では、長嶋監督の功績を一言で言い表すとどのようになるのか?
それは「プロ野球自体を憧れの対象にした」ということではないでしょうか。もしも長嶋監督がいなければ、プロ野球がコンピューターゲームの題材になっていることもなかったかもしれません。
◆「来年の保証」がないプロ野球
我々は「パワフルプロ野球(パワプロ)」シリーズの新作の情報を楽しみにしています。
現代の「パワプロ」は、単なる野球ゲームではなく「一人のプロ野球選手の人生を体験する」というシミュレーション要素も加わっています。
たとえば主人公が先発投手としてプロ球団に入った場合、1回から6回あたりまで2点くらいに抑えれば監督から「よくやった!」と褒められ、球団内での評価が上がります。1試合まるまる完投し、なおかつそれが完封勝利であれば、それこそ評価は爆上がりです。これは来年の年俸額に直結する要素でもあります。

逆に、1回から打たれまくって大炎上してしまった場合、球団からの低評価は避けられません。来年は減俸……いや、もしかしたら自由契約という悲劇が待っているかもしれません。プロ野球選手とは、実に不安定な立場に身を置いています。
さて、ここで筆者から読者の皆様に質問です。あなたには一流の私立大学卒業を控えている息子さんがいます。非常に優秀な息子さんで、大手企業から就職の誘いが来ているほどです。しかし、その誘いを蹴って「プロ野球選手になりたい。実は昨日、巨人と阪神と楽天からドラフト指名されたんだ!」と言い出したら、親であるあなたはそれに賛成しますか?
恐らく、多くの人が悩むと思います。プロ野球選手よりも実績ある大手企業の会社員になるほうが確実な人生で、言い換えればドラフト指名されてもプロ選手として成功する保証はどこにもないからです。
では、立教大学野球部のスター選手だった長嶋監督が巨人に入団する以前の人々は、この問題についてどう考えていたのでしょうか?
◆「野球の最高峰」は六大学野球だった!
長嶋監督が選手として巨人に入団したのは1957年12月。この時代、大学卒は超エリートであり、高校卒は高度人材、そして中学校卒は一般的な労働者でした。
日本では戦前から野球が人気ナンバーワンのスポーツでしたが、「野球の最高峰」といえばプロ野球……ではなく六大学野球だったのです。
現代の小学校や中学校でも、勉強ができてスポーツ万能の男子はクラスの女子にモテるはず。六大学野球とはどこかの学校のクラスで一番どころか、全国で一番の頭脳を持ったフィジカルエリートが全力で競い合う舞台です。スター選手となれば、道を歩いてるだけでも女の子にキャーキャー言われる存在でした。
それに比べたら、プロ野球は「六大学野球に行けなかった選手の進路」であり、さらに悪い言い方をすれば「野球を芸にしている連中の集まり」でした。したがって、ある時期までのプロ野球は庶民人気はあったものの、野球界の最高峰である六大学野球からは敬遠されていたのです。
現代とは違い、中卒者や高校中退者がプロ入りするということも当時はありました。1954年10月に巨人軍に入団した馬場正平(のちのプロレスラー、ジャイアント馬場)は、このために高校を中退しています。広尾晃氏が執筆した「巨人軍の巨人 馬場正平」という本には、“長嶋以前のプロ野球”の様子が詳しく説明されています。
馬場正平が、三条実業高校を中退してプロ野球に入りたいと思った理由は、いくつか考えられる。
ひとつは、当時の新潟県が高校野球では極めて弱く、どんなに頑張っても甲子園に出ることは絶望的だったこと。
(中略)
馬場正平は、自らの目標があまりにも遠いことを身をもって知り、絶望したのだろう。
三条実業の工業科に進んだのは、工業を学んで技術や知識を身につけたかったからではない。ひとえに野球がやりたかったからだ。
しかし、「甲子園出場は到底無理」という現実を目の当たりにして、馬場は焦燥感を抱いたに違いない。
前述したように、当時の新潟県の高校進学率は38%。高卒よりも中学卒業のほうが多かった。「高卒」の学歴は、それほど重要ではなかった。
(巨人軍の巨人 馬場正平-広尾晃 イースト・プレス)
選手としての実力はある(と本人は確信している)ものの、母校の野球部は決して強くない。だから高校を中退し、プロを目指す……ということがこの時代にはよくあったようです。
また、高校野球での実績が皆無の高校生が、「この球団なら俺のポジションの選手層は薄いからレギュラーになれるかもしれない」と探りを入れて見事にレギュラーの座を射止める……という余地が当時のプロ野球にはありました。ちなみに、この高校生の名前は野村克也。ノムさんは大学出身というわけでも、高校野球の強豪校出身というわけでもなかったことに注意が必要です。
つまり、当時のプロ球団は「六大学野球のスターをスカウトして即戦力にする」ということは殆どしていなかった(できなかった)のです。
◆ネガティブイメージを払拭する「何か」
この馬場選手は一軍投手としては活躍できませんでしたが、「長嶋以前」と「長嶋以後」のプロ野球の変化を現場で見ていた貴重な証人でした。
馬場選手が巨人に在籍していた時代、一軍監督の水原茂と球団社長の品川主計が読売新聞社主の正力松太郎の前で真っ向から対立する騒動がありました(水原謝れ事件)。馬場選手はここから端を発する派閥争いに巻き込まれたために一軍では冷遇されたと言われていますが、こうした不毛な事件がそのままプロ野球へのネガティブイメージに直結していたことは言うまでもありません。それを払拭する「何か」が、当時のプロ野球には必要でした。
そこへやって来たのが、長嶋茂雄選手です。

当時は立教大学を卒業したあとは実業団に行くものと見られていた長嶋選手が、何の躊躇もなくプロ野球の球団に入った様子はまさに衝撃的な光景でした(当時、プロ入りを表明した六大学野球出身選手は大学OB会から絶縁されることもありました)。
◆「野球=プロ野球」になった!
そして、ここからプロ野球は「誰しもが認める国民の娯楽」になっていきます。
長嶋選手が活躍する漫画がいくつも登場し、さらに1959年3月発行の週刊少年サンデー創刊号の表紙に長嶋選手が登場しました。「少年の内緒話に耳を傾ける長嶋選手」です。その姿に陰険さや球団の派閥闘争の影は一切なく、「ひたすら全力で野球に打ち込む熱血選手」というイメージだけがメディアを通じて広がりました。
この瞬間、プロ野球は市民権を勝ち取ります。

1983年12月に発売されたファミコンソフト『ベースボール』には、「G・C・D・W・T・S」の全6球団が登場します。これは当時のセ・リーグにあった球団の頭文字です。もしも長嶋選手が存在していなければ、プロ野球を題材にしたコンピューターゲームも作られていなかったはずで、『ベースボール』は六大学野球をテーマにした作品になっていたかもしれません。
言い換えると、1980年代には六大学野球の役割が「野球の最高峰」から「プロ野球入団までの一過程」に変わってしまったということでもあります。

◆監督の性格とチームの個性
長嶋監督の功績をもう一つ挙げるとするなら、「監督の性格がそのままチームに反映される」ということを誰の目にも明らかにした……という点ではないでしょうか。
長嶋監督が現役を引退してからすぐ、巨人軍の一軍監督としての役目が回ってきました。それまでの川上哲治監督の方針を大きく変更し、「クリーンベースボール」を掲げて選手にダイナミックなプレイを要求した……のはよかったのですが、残念ながらそれらが裏目に出て監督就任1年目は最下位。しかし、結果はどうあれ「監督が交代すればチームもここまで変わるんだ!?」ということを長嶋監督は体を張ってアピールしました。
「パワプロ」シリーズや「ファミスタ」シリーズの「登場選手一人一人に個性を与える」というコンセプトは、長嶋監督の「選手の個性を前面に押し出す野球」が根本にあるのではないでしょうか。それまでの野球は選手は言わば将棋の駒のような感じで、与えられた役割をできるだけミスなくこなすことが第一に求められていました。しかし長嶋監督は加点主義を導入することで、選手に対して「ダイナミックな活躍」ができる余地を与えました。
そんな長嶋監督が理想とした野球は、コンピューターゲームの世界にもしっかりと受け継がれ、今も絶え間ない進化を遂げています。
【参考】
巨人軍の巨人 馬場正平(広尾晃 イースト・プレス)
野村再生工場-叱り方、褒め方、教え方(野村克也 角川Oneテーマ)
野球は人生そのものだ(長嶋茂雄 中公文庫)